『ドン・ロドリゴ日本見聞録』(-にほんけんぶんろく)とは、スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。, 1609年(慶長14年)9月、ロドリゴ・デ・ビベロが帰国のためフィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ向かう途中、遭難して日本に漂着し、約1年間日本に滞在することになった際の記録である。1857年に初めて公刊された[1]。日本では、『大日本史料』第12編第6冊(慶長14年9月条、658-677頁)と第7冊(慶長15年5月4日条、231-241頁)に原文と村上直次郎による抄訳が抄録されたのち、1929年、村上による完訳が、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』と題して公刊されている。, 16-17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた[2]。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。, 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている[3]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ドン・ロドリゴ日本見聞録&oldid=72212070. ロドリゴは自著「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で貴重な大御所時代の駿府城のことを次のように書いている。 「私は約束の時間に宿舎を出でて、駿府城の第一門に到達したが、そこは(江戸の)太子の門のようには見るべき物は多くない。 日本との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relación Japón)』として詳らかに書き残している。 明治時代になって欧米を歴訪した 岩倉具視 等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。 jap.e.3060/7. ドン・ロドリゴ日本見聞録 ウィリアム・アダムスが建造した西洋式帆船は、フィリピン臨時総督の任を解かれてメキシコへ帰還する ロドリゴ・デ・ビベロ に貸し出された。 ドン・ロドリゴ日本見聞録 (異国叢書 (第11巻)) (日本語) 単行本 – 2005/5/1 ドン・ロドリゴ (著), ビスカイノ (著), 村上 直次郎 & 0 その他 その他 の形式およびエディションを表示する 他の形式およびエディションを非表示にする タイトル別名. ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ( Rodrigo de Vivero y Aberruza 、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ 貴族、植民地 政治家。 江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ( Don Rodrigo )の呼び名で知られる。. ドン・ロドリゴ日本見聞録 ビスカイノ金銀島探検報告 <異國叢書> ¥ 8,000. スペインはコロンブスの新大陸の発見を機に、16世紀にはフェリーペ二世のもとで積極的に海外に進出した。本国以外にもイタリア・ネーデルランド(オランダ)・新大陸と広大な領土を有す世界の最強の国となった。さらに太平洋を越え、マニラ(フィリピン)を占領しアジア進出の拠点とした。そのスペインから大物が来日したのは、1611年(慶長16年)である。きっかけは、この2年前にスペイン領フィリピンの臨時総督であったドン・ロドリゴを乗せた船が、メキシコに帰国する途中で難破し、思いがけなく日本 … 大日本仏教青年会聯盟要覧 小冊子 昭和18年1月. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/01 03:54 UTC 版), 1609年(慶長14年)9月、ロドリゴ・デ・ビベロが帰国のためフィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ向かう途中、遭難して日本に漂着し、約1年間日本に滞在することになった際の記録である。1857年に初めて公刊された[1]。日本では、『大日本史料』第12編第6冊(慶長14年9月条、658-677頁)と第7冊(慶長15年5月4日条、231-241頁)に原文と村上直次郎による抄訳が抄録されたのち、1929年、村上による完訳が、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』と題して公刊されている。, 16-17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた[2]。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。, 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている[3]。, ドン・ロドリゴ日本見聞録のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, All text is available under the terms of the. ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(Rodrigo de Vivero y Aberruza、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)の呼び名で知られる。, 村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、『国史大辞典』や『世界大百科事典』など、姓をビベロ・イ・ベラスコとする文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ (Rodrigo de Vivero y Velasco) との混同によるもので、誤りである[1]。, 1564年に父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコの任地であるヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で生まれ、エスパーニャ本国で成長し、フェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリアの小姓などを勤める。その後、ヌエバ・エスパーニャ副王だった伯父のルイス・デ・ベラスコ(英語版)に重用され、1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともない1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣される[注釈 1]。, フィリピン臨時総督の後、パナマ地方長官兼軍司令官などを勤め、1627年にフェリペ3世によりバリエ・デ・オリザバ伯爵(スペイン語版)に叙爵され、1636年に没した。, フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送る。, 1609年(慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、ガレオン船3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ」は難破、9月30日に上総国大多喜藩領の岩和田村(現千葉県夷隅郡御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される[注釈 2][注釈 3]。大多喜城の本多忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった[2]。なお僚艦の「サンタ・アナ」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し[注釈 4]、もう一隻の「サン・アントニオ」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。, 地元民に救助されたロドリゴ一行は、本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナベントゥーラ」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。, サン・ブエナ・ベントゥーラには、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人・田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年(慶長16年)、田中勝介らとともにヌエバ・エスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団とともにサン・ファン・バウティスタ号で帰国した。, 現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、漂着した御宿町、いすみ市、大多喜町で開催されている。, 前総督ペドロ・アクーニャ死去時、伯父のルイス・デ・ベラスコが2期目のヌエバ・エスパーニャ副王に在任していた。, 緊急入港した「サンタ・アナ」は破船せず、家康の発行した朱印状があったため、厚遇された。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ロドリゴ・デ・ビベロ&oldid=78075769, "An unscheduled visit : Rodrigo de Vivero in Japan, 1609-1610" Michael Cooper, The transactions of the Asiatic Society of Japan, 0913-4271 ; 4th ser., v. 22 , 2008. ドン・ロドリゴ日本見聞録 ; ビスカイノ金銀島探検報告 . 書誌情報 簡易表示 永続的識別子 info:ndljp/pid/1043695 タイトル ドン・ロドリゴ日本見聞録 著者 村上直次郎 訳註 出版者 奥川書房 出版年月日 昭和16 請求記号 291.099-V83ウ 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000000668521 DOI 10.11501/1043695 公開範囲 国立国会図書館/図書館送信参加館内公開 詳細表示 … ドン・ロドリゴ日本見聞録 情報 操作方法 . ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(Rodrigo de Vivero y Aberruza、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)の呼び名で知られる。 All Rights Reserved. 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている [3]。 彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が 君主制 を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということ … ドン・ロドリゴ日本見聞録 : 附ビスカイノ金銀島探検報告書. 書誌情報. 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』(-にほんけんぶんろく)とは、スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。 ドン・ロドリゴ ニホン ケンブンロク ; ビスカイノ キンギントウ タンケン ホウコク. タイトル読み. 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている 。 彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が 君主制 を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。   Windows IEでは「ALT」+アクセスキー、Windows FireFoxでは「ALT」+「SHIFT」+アクセスキーのように押して利用します。. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043695/1, この資料は、著作権の保護期間中であるか、著作権の確認が済んでいない資料のためインターネット公開をしていません。閲覧を希望される場合は、国立国会図書館または図書館送信参加館へご来館ください。>デジタル化資料のインターネット提供について図書館送信参加館にご来館になる場合は、来館予定の図書館へ利用方法の確認をお願いいたします。 「書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 」が表示されている資料は、遠隔複写サービスもご利用いただけます。>図書館向けデジタル化資料送信サービス(図書館送信)について>図書館送信参加館一覧>遠隔複写サービス の申し込み方, *アクセスキーの場合は、表中に「*」をつけています。 ドン・ロドリゴ日本見聞録 著者 村上直次郎 訳註 出版者 奥川書房 出版年月日 昭和16 請求記号 291.099-V83ウ 書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク) 000000668521 DOI 10.11501/1043695 公開範囲 国立国会図書館/図書館 村上直次郎譯註 、駿南社 、昭和4年 、1, 4, 8, 174, xii, 182p, 図版8枚 、22cm 初版 天金背革装 元パラ 函 旧蔵印有 唯書館. 村上直次郎譯註 (異國叢書) 駿南社, 1929.4. オックスフォード大学 ボドリアン図書館 bjl. その後、一行を 江戸城 へ寄らせ 徳川秀忠 と謁見させ、 駿府城 にて徳川家康との会談にも導いており、約40日滞在したロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を残した。 ドン・ロドリゴ日本見聞録 ; ビスカイノ金銀島探検報告 村上直次郎譯註 (異國叢書) 駿南社, 1929.4 タイトル別名 ドン・ロドリゴ日本見聞録 : 附ビスカイノ金銀島探検報告書 タイトル読み ドン・ロドリゴ ニホン ケンブンロク ; ビスカイノ キンギントウ タンケン ホウコク Copyright © 2011- National Diet Library. アンデス書房の新着書籍. 大学図書館所蔵 件 / 全 119 件. アンデス書房 東京都世田谷区奥沢 ¥ 2,500. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043695, 余白の削除などで一部分だけ印刷したい場合、または画像が薄すぎる、暗すぎる場合は、下の「詳細設定」をお試しください。. 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』(-にほんけんぶんろく)とは、スペインのフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロが執筆した書物。江戸時代初期に遭難して日本に漂着した際の見聞をまとめたものである。, 1609年(慶長14年)9月、ロドリゴ・デ・ビベロが帰国のためフィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ向かう途中、遭難して日本に漂着し、約1年間日本に滞在することになった際の記録である。1857年に初めて公刊された[1]。日本では、『大日本史料』第12編第6冊(慶長14年9月条、658-677頁)と第7冊(慶長15年5月4日条、231-241頁)に原文と村上直次郎による抄訳が抄録されたのち、1929年、村上による完訳が、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』と題して公刊されている。, 16-17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた[2]。『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。, 『ドン・ロドリゴ日本見聞録』には、日本人について以下のように記述されている[3]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ドン・ロドリゴ日本見聞録&oldid=72212070.
2020 ドン ロドリゴ日本見聞録