3月9日(土)17時00分 最近この手のニュースが多いね. 元ロマンポルノ女優、M-1挑戦!脳梗塞・子宮がんを乗り越えた白川和子が掴んだ「幸せ」, 1979年、連続ドラマ『風花のひと』(日本テレビ系)に出演して以降、白川和子さんにはテレビや映画の出演依頼が次々に舞い込むようになる。長女は看護学校に通い、高校を卒業した長男は料理の道に進み始めていた。, 次女はまだ小学校1年生だったが、女優として再出発する自信をつけた白川さんは、浮気が発覚した夫に離婚話を切り出したという。白川さんになついていた長男は何とか離婚を思いとどまらせようとするが、白川さんの決意は変わらなかったという。そして1980年、7年間の結婚生活にピリオドを打った白川さんは東京で次女と2人で暮らし始める。, 離婚した後も、白川さんと夫の連れ子だった長女・長男との関係は続いていた。長男は頻繁に電話をかけてきたし、離婚の年に看護学校を卒業した長女からは月に一度は便りが届いたという。, 「下の娘(次女)はお兄ちゃんもお姉ちゃんもお父さんも大好きでね。ずっと一人でも3人が暮らす大阪に帰るって言っていましたからね。だから、離婚したこと、お姉ちゃんとお兄ちゃんとは母親が違う異母兄弟であることを打ち明けたんですけど、ワーワー泣き出してしまって大変でした。まだ7歳でしたからね。, それに学校でいじめられるようになって登校拒否になるし…。そんなときに別れた夫が東京に転勤になって、娘は父親のことばかり話すようになりました」, 「娘の近況を逐一報告することが離婚の条件でしたから、学校でのいじめもすべて知らせていました。彼からは娘のお誕生日や習い事の発表会など、ことあるごとに電報が届くので娘が父親のことを忘れるわけはないですよね。, それで娘のために彼を夕食に招待することにして。娘が彼と会うのは3年ぶりでしたけど、もう飛び上がらんばかりに喜んでしがみついていました。結局、その日は娘が『帰っちゃダメ』と言って3人で川の字になって寝て、翌朝、今までの登校拒否が信じられないほど元気に登校していきました」, その日以来、次女の登校拒否は完全に直っていたという。もう一度別れた夫との関係を考えてみようと思うようになったときに、長女から別れた夫が咽頭がんの疑いで入院したことを知らされ、また、次女が『お父さんの歯ブラシは用意したの?パジャマは用意したの?お父さんをひとりで入院させるの?』と言うこともあって、仕方なく白川さんは、入院している彼の面倒を見るようになる。, 「病院に行ったときは、検査のために麻酔で喉の細胞を取った直後で、からだも口も自由がきかない状態。嫌みのひとつも言ってやろうと思っていたんですけど、言えませんでしたね。結局情け心がまた出てしまって、必要なものを買いにいったりしていました。, それから一週間ほどしてがんの疑いも晴れて退院したんですけど、『たまにだったら家に来てもいいよ』って言ったら、その翌日から私と娘が暮らすマンションに住みついてしまったんです(笑)」, 結婚していた頃は、金銭苦もあり、どうやって年を越そうかといつも悩んでいて、正月さえもまともに迎えたことがなかった白川さんだが、別れたご主人と次女と3人で、この年初めて心穏やかな正月を迎えたという。しかし、その年の春先、白川さんの子宮がんが発覚する。, 「お姉ちゃんに『二度と親を亡くすのは絶対に嫌やからね。お願いだから病院に行って』と言われて行ったんですけど、子宮がんだと告げられたときには目の前が真っ暗になりました。, 先妻をがんで亡くした主人は一瞬顔色が青ざめていましたね。それからは人が変わったように優しくなって、献身ぶりは誰よりも情愛深かったです」, 別れたご主人は、手術後の痛みと自由にならないからだに苛立つ白川さんを献身的に看病していたという。退院後、自宅療養を続けながらも東京で一緒に二度目の正月を迎えた2人は、子どもたちの要望で、1985年3月3日、桃の節句に再婚する。, 「母がもう別れちゃ困るからって、市役所まで付いてきましたよ。この復縁に一番喜んだのはお兄ちゃん(長男)でした。私たちが再婚してすぐに息子は結婚したんですけど、両親そろって結婚式に出てほしかったんですよね。, 昔は暴走族で大変だったんですけど、今は有名ホテルの副総料理長ですからね。よく頑張っていますよ。長女も看護師として立派にやっています。私が子宮がんをやった後、入院費と手術費で結構なお金が必要なときもお金を工面してくれたりして、本当に親孝行な娘です」, 「51歳のときには脳梗塞もやりました。顔が半分しびれて大変だったんですけど、もう大丈夫です。そしてその次の年には膵(すい)臓を患って慢性膵炎。だから今は食べ物の制限がありますけどね。それでその次の年には卵巣に腫瘍が見つかって、卵巣と卵管を取ったんです。, 3年続けて病気になって、克服してやっと本格的に仕事をしようってなったら、マネジャーが食道がんですからね。もうどうしようってなったときに、ワハハ本舗の柴田理恵さんが『私が座長芝居をするから来ない?出て』って言ってくれて、救ってくれました。やっぱり人って本当にどこかで救ってくださる人がいるんだなぁと思って」, 「いえ、その後何度もお仕事でご一緒させていただきましたが、そのときにはまだ入っていなかったんです。3年前に所属していた事務所を閉めるというので、そのときに女優をやめようと思ったんですね。, だって70歳近い女優を誰がマネージメントなんかやります? そんな時代じゃないもの。今は厳しい時代だから。でも、3年前からワハハに入って、色々出させてもらえているから幸せだなあと思います。それで『田中絹代賞』までもらえるなんて信じられませんよね」, 「そうなんです。ワハハ本舗のジジ・ぶぅとコンビを組んで、2回出ました。60歳になって還暦でね。ワハハのみんなに『60歳になって、何かもう一つやらなきゃいけないよね。一人芝居はみんなやっているし』って言ったら、『じゃあ漫才やれば?』って言われたのが最初です。, M-1というのは、私はボクシングか何かだと思っていたんですよ。知らなかったんですよね。それでワハハのメンバーが、『M-1に行ってきた』って言うから、『ワハハのみんなはすごいなあ。格闘技をやってから稽古場に来るんだ』って思っていましたもん(笑)。, それが漫才だとわかってネタを作ることになって、今度は図書館に行って、漫才の歴史を勉強して、漫才のビデオを見たりして。それにたまたまワハハに歌江師匠(正司歌江)がいらしたし、私は歌江師匠と昔から知り合いだったのでね。最初は『ベタな』とか『すべる』という言葉も知らなかったんですけど、やろうって(笑)」, 「そうです。1回戦は通ったんです。2回戦で時間がオーバーしたりしてダメになるんです。制限時間オーバーで(笑)。今は、相方のジジ・ぶぅと私のスケジュールがなかなか合わなくて稽古ができないんですけど、日程が合えば、お笑いライブに出させていただいていますね」, 「ちょっと能天気なところがあるから『凶悪』という映画に出させていただいたときも、ジジ・ぶぅがだんなさんの役だったんですけど、リリー・フランキーさんの名前を見て、ジジ・ぶぅに『この映画は外国人が出ているの?』って言ったら『白川さん、何言ってるの。日本人ですよ』って言われて(笑)。, それくらいわからないんですよ。だから新しく台本をいただくと若手の方はわからないから、孫に『この人は誰?』って聞くようになりました(笑)」, 「そうですね。この間なんてワハハの舞台で紙おむつをはきましたからね、もちろん舞台上の演出としてですよ(笑)。その2、3日前には奈良の国際映画祭でレッドカーペットを歩いているんですよ。それが2、3日したら、舞台で紙おむつ姿ですからね(笑)。, でもね、それが楽しいんですよ。お客さんが喜んでくれるんだったら、それでいいやと思って、紙おむつでもなんでもやっています。中途半端にやるのが1番いけない。やるならやる、やらないなら最初からやらない」, 「はい。美輪明宏さん主演の大きな劇場での舞台も出させていただいたり、小さな劇場での舞台も出させていただいたり、そこに見に来てくれるお客さんは一緒なんですよね。小さな劇場のときは、すぐ目の前が客席でお客さんが一生懸命ニコニコ笑っていて。, 『ああ、このおじちゃんも明日また頑張って働くんだろうなあ。だったら今日は思いっきり笑ってもらおう』と思っちゃうわけですよ。, 映画もそうですけれども、スクリーンを通して劇場に見に来てくれた方と分かち合いたいんです。上から目線とかじゃなくて一緒に。それが好きなんですね。だからできると思うんです」, 「美輪さんに『私たちの舞台はスペシャルなのよS席は1万円。それに交通費がかかるし、2人で来てお食事したら2、3万円かかるよね。それに見合うだけの芝居をしなかったら詐欺ですよ』って言われたんですよ。, 舞台の世界でも学び、映画もテレビもラジオもディスクジョッキーもやっていましたからね。人生相談とか、そういうすべてのところで学びですね。生きているということを楽しんでいるのかもしれないですね。, しんどいときはしんどいですよ。体調を崩したりもしたし、がんにもなったし…。いろんなことがあって、子育てもしてきた人生が、もしかしたら今ちょっとだけ味になっているのかなあって思います。まだまだですけどね(笑)」, 幼いころは幼稚園の先生になりたかったというほど子どもが大好きな白川さん。現在は孫が5人、昨年ひ孫も誕生したという。, 「本当にみんな親孝行で、孫たちとも仲が良いんです。そして、子どもたちから言われた『一度も腹違いだと思ったことはないよ』という言葉が、私にとっての勲章です」, 「足腰は年々弱くなっていますが、元気ですね。口も達者で時々生意気なことも言ったりしますしね(笑)」, 「そうそう。だから主人の足の爪と手の爪を切ってあげているんですけれども、切りながら『このおっさん、あのときあんなことをしたなあ、浮気もしたし』って深爪してやろうかと思うときがありますよ(笑)。, 下の娘もお姉ちゃんと同じく看護師になったんですけど、今でもお父さん子なんですよ。『お母さん、どうするの?お父さんはもう88歳になるけど、何かあったときに施設とかに入れるの?私は自分で面倒を見たいんだけど』って言われましたもん。本当に好きなんですね。『私はどうなるの?』って感じですよね(笑)」, 70歳を超えた今、まだまだ色々やりたいことがいっぱいあるという白川さん。かつてスクリーンで白川さんを見ていた世代の監督たちからのオファーも多く、演じる役柄も幅が広い。愛する家族に支えられ、白川さんのチャレンジは続く。(津島令子), 王者オジェ、ラリー・メキシコ5勝目!トヨタ・タナックは総合トップをキープ【WRC】, 動画内の“食べ物“に触れると…ももクロが興奮した「差し入れ」が味わえるSP動画公開, 「僕たちは説明病」テレビマンは“バズるネット動画”は作れない?<テレ朝30代バラエティD座談会>, テレ朝POSTは、テレビ朝日が持つ情報力、ネットワーク力にWEBメディアの機動力をもって、これからの(POST)テレビ朝日、テレビ、ひいてはエンタメすべてについて考察し、積極的に発信(POST)していくエンタメウェブメディアです。, 大沢樹生、6歳長女とデートする親子ショット公開「オシャレな親子ですね!」「天使ちゃん」, 藤本美貴、夫・庄司智春&子どもたちの親子写真公開「大きくなったね」「素敵な家族に、素敵なおうち」, 「夫の連れ子」との関係に悩む37歳女性の葛藤 あるステップファミリーが模索する幸せの形, 安藤和津、コロナ禍で“親子3世代生活”が急遽スタート!夫・奥田瑛二の変貌ぶりに驚き, MALIA.、“モデル級”長女との2ショットに反響「親子揃ってスタイル抜群」「遺伝子凄すぎる!」. dメニューニュースを適切に表示するために、JavaScript設定をONにしてご利用ください。, ピンク映画に出演後、1971年、経営難だった日活が社運をかけて製作した日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』の主演女優に起用された白川和子さん。映画は連日立ち見が出るほどの大ヒットを記録し、“日活ロマンポルノの女王”、“裸のジャンヌダルク”と称され、日活ロマンポルノ界のアイドル的存在となる。, だが、世間の風当たりは強く、防衛庁に勤務する父は辞職を覚悟し、妹は結婚が破談になったという。その後、日活社員と結婚。しかし当時、日活ロマンポルノはダーティーフィルムと呼ばれていたこともあり、団地生活での周囲の主婦たちからの風当たりも強かった。, さらに自身のがん闘病など、さまざまなアクシデントに見舞われながらも女優として活動を続け、今年毎日映画コンクールで「田中絹代賞」を受賞。その白川さんにこれまでの波瀾(はらん)万丈の人生を語ってもらった。, 「『何の話をしているんだろう?何を言っているんだろう?』って思いました。前に日本映画批評家大賞でゴールデングローリー賞をいただいたことがあるんですけど、そんなに賞に執着はないし、ただ好きで映画を撮ってきたということだけだったので。, 一番先に知らせたのは家族。妹と弟がいますから。妹が一番喜んでいました。私が日活ロマンポルノをやっていたから妹は結婚が破談になったりして大変だったんですよね。両親が生きていたら一番喜んでもらえたと思うんですけど、もう亡くなっていますからね。, そして日活時代に一緒に戦った田中真理さんと片桐夕子さんに知らせたんですけど、本当に喜んでくれました。色々なことがありましたからね」, 「そうですね。波瀾万丈でしたけど、自分ではそんな風にはあまり思ってないのね、波瀾万丈とか。多分自分に超えられないものは身にふりかかって来ないと思っているから、今来ている大変さは乗り越えるためのものなんだなという感じで、一つ一つ乗り越えてきましたからね、山を。まだまだですね、今、何合目ぐらいでしょうかね?」, −お父様が防衛庁に勤務されていたそうですが、時代も今と違いますから大変だったのでは?−, 「大変でした。当時、世間は私を責めるよりも家族を責めましたね。特に父は防衛庁を辞めようか悩んでいました。それで母が私と父の間に入ってくれたんですけど、本当にいろんな意味で迷惑をかけてしまいました。私を責めてくれればいいんですけれども、あの当時ですから世間の目も厳しかったし…。本当に私は荒波の中に泥の船にでも乗っていくような感じでした」, 大学時代に小さなプロダクションの社長にスカウトされ、ピンクものを上演している劇団のオーディションに合格した白川さん。入団3カ月目には大きな役も回ってくるようになる。, ちょうどその頃、週刊誌から三島由紀夫さんとの対談とグラビアでヌード写真掲載の話が舞い込む。当時、女子大生が週刊誌のグラビアにヌードで掲載されるということは世間を騒がせることになるのは確実だったため、白川さんはなかなか決断できなかったという。しかし、三島さんに「肉体の美も精神の美も同じものですよ」と励まされて撮影を決断する。そのヌード写真がきっかけでピンク映画から出演オファーが。, 「私は16歳のとき、高校で演劇部に入って初めて見た舞台に市原悦子さんが出られていて、女優になるって決めたんですよ。自分の人生はこれだって。演じることが好きだから、どんなジャンルであれ、カメラの前に立ちたいという思いが強かったんです。演じたいという思いが。それでいつかはきっと市原悦子さんと必ず共演できる日が来ると信じて。, 自分でそういう夢を描いて『今はこういう形で仕事をしているけれど、どんなジャンルでも全部ベストを尽くそう』って全力でやっていました。だから当時はよく『着ていても女優、脱いでいても女優』なんて生意気なことを言っていましたよ(笑)」, −最初にピンク映画に出演されたときはまだ男性経験もなかったそうですが、よく決断されましたね−, 「当時の私は女優としても演技についても貪欲でしたし、映画も体験したいと思っていましたからね。でも性愛シーンなんてどうやったらいいかわからなかったので、監督に言われるまま、額にシワを寄せて、口を開けて…という感じでした。処女喪失のシーンは監督に太ももをつねられたときの顔ですからね(笑)。, そんな感じですからどうしてもコツがつかめなくて、これはもう実地見学しかないと思ったんですよね。それで友だちと一緒に鶯谷にあった連れ込み旅館に行って、壁に耳を当てて盗み聞きをしたりもしましたね(笑)」, 「世間では200本って言っていますけれども、そんなには出てないと思いますよ。数えたことはないですけどね。ただ主役はほとんどやっていないです。脇役だったから何本も掛け持ちができて、いろんな役がやれました。, あの当時のピンク映画は助監督さんが1人だけで、メイクさんもいないし、衣装さんもいなかったんですよ。自分で全部そろえなければいけないし、メイクもヘアも自分でしなければいけないというなかで技術を学んだんですね。全部自前だったので、着物なんて質流れを買いに行ったりしてね。そこですごく私は勉強したという気がします。だから私に付き人さんがいたりとか、ヘアメイクさんやスタイリストさんの方がいるというのは、今でも似合わないんですね(笑)」, ※白川和子プロフィール1947年9月30日生まれ。長崎県出身。大学在学中に劇団「赤と黒」に入団。劇団とは別に5年間で約200本のピンク映画に出演。1971年、日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』の主演女優に抜擢(ばってき)され人気を博す。, 1973年に結婚していったん引退するまでロマンポルノ約20作品に出演。1976年に女優復帰して以降、映画、テレビドラマ、舞台に多数出演。2009年にはお笑い芸人のジジ・ぶぅとコンビを組んでM-1グランプリ(テレビ朝日系)に出場。ワハハ本舗所属。, 1971年、経営難を迎えていた日活は、起死回生をかけてポルノ映画の製作を決断する。この方針には日活社内でも賛否両論に分かれ、辞めていく社員も多かったが、社運をかけたロマンポルノの製作準備は着々と進められ、白川さんにオーディションを受けてみないかという話が舞い込む。, 「最初は何を言っているんだろうって思いました(笑)。当時、ピンク映画はダーティーフィルムと呼ばれていましたから。だからオーディションに行ったとき、私も若かったとはいえ生意気なことを言ったんです。, 私たちは細々とピンク映画をやっていたわけなんですね。それが、撮影所のある大手がやり始めたら、私たちはつぶされちゃうんじゃないかって、『私たちの職場を荒らさないでください』と言いたいことを言って帰って来ました。だから期待はしていなかったのですが、台本を取りに行ったら、主役だったので、ビックリしました」, 「それまでやっていたピンク映画とはくらべものにならない大掛かりなセットに驚かされました。まるでハリウッドみたいだと思いました。衣装さんとメイクさんも何もかもがそろっていましたし。ピンクとロマンポルノはどこが違うんだろうと考えながらも、とにかく女優の底力を見せてやろうと意気込んでいました。, それにいろんな事情で辞めていった人はいるけれども、残っている人たちは『映画の灯を消したくない』と思って頑張っている人たちなんですよ。その残った人たちの思いを肌で感じたんです。みんなの熱い思いだけは自分の中にエネルギーとして秘めて頑張ろうという感じでした」, 日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』は爆発的な大ヒットとなり、連日、立ち見客が出るほどの記録的な興行成績を達成。白川さんの記事が毎日のように男性週刊誌やスポーツ紙を飾るようになり、白川さんがロマンポルノ映画に出演していることを知らなかった父にバレてしまう。, 「激怒した父は『申し訳が立たないから防衛庁を辞める』と言うし、母は『娘がロマンポルノの女優じゃ世間を歩けない』と言っていました。私は芝居をやめるくらいならもう死ぬしかないと思っていたので、父に『今はこの仕事をしているけれど、10年後には必ずお父さんの思う女優さんの仕事ができるように頑張るから10年待ってほしい』と言って、父はもう泣く泣く見て見ぬふりをするという状況でした。, そのとき父に『深みのある人間になれ』って言われたんですね。父が言いたかったことは、人としてまず自分を磨け、そして技を磨け。これが両輪でしょうけど、まず人としてどうあるべきかというのを常々言っていたので、それがやっぱりすごく大きいですね。だからここまで映画に携わって生きてこられたんだと思います」, 1作目の大ヒットで団地妻シリーズは次々と製作され、「和子を出せば必ず当たる」と日活社内で言われるほど主演映画はことごとくヒットを記録。引退するまでの1年半の間に合計20作品に出演した。, −「日活の救世主」「ロマンポルノの女王」「裸のジャンヌダルク」などと称されましたね−, 「そうですね。ただ、私の中では全くないんですけどね。でも、1作目の団地妻を撮って、次の作品になったときにものすごく神経を使いました。男性の欲望の中には『脱がせたい、裸を見てみたい』というのがあるじゃないですか。それを1回見せているわけですから、そこから先をどうやって女優として演じていくかというのが問題でした。, 身一つですからね。衣装を着ていれば、その着ているもので役柄のキャラクターがわかるけど、脱いでしまうと自分のからだひとつでこの女性をどうやって表現しようかって、ものすごく神経を使いました。手の動きだとか…」, 「辞めていった方もいましたし、仕方なくやっているという方もいました。特に相手役の方なんかは仕方なくお仕事としてされている方もいたかもしれませんね。私は独身だったし、若いから『青春だ』なんて思っているけど、相手役の方にはだいたい奥様がいたり、家庭があったり、その中でこの仕事をやっていらっしゃるわけですからね。そういう方には大先輩に対して失礼ですけど、今思えば、いたわりというか、撮影現場がやりやすいようにと考えてやっていたと思います」, 「23歳でした。でも私より大先輩たちじゃないですか。その方たちの中にはやむなくロマンポルノで相手役をされている方もいたと思います。いろんなところの劇団の方がいらして、私よりははるかにお勉強もされているし大先輩なわけですよ。, 私はと言えば高校のときにちょっと演劇部で3年間かじったくらいで、基礎ができていないから、共演させていただいた先輩からはたくさんのことを勉強させていただきました。もちろんスタッフさんからもたくさんのことを教えていただきましたね。私はそこで学ぶしかないって。, だから、自分で言うのもなんですけど『私は職人だったな』って思います。ほかの人の演技を見て。盗むというか、磨くというか…。だから常に私は自分が出ていなくても監督さんの隣にいて、ジーッと周りの方たちが演じるのを見ていました。それしか私には学ぶ方法がなかったんです。養成所も出ていなければ研究所も出ていない。ただピンク映画をやっていた、現場をやっていたというそれしかなかったので」, 「そうですね。大学祭は引っ張りだこでした。時代が時代でしたからね。昭和46年は学生運動があって、最初に行ったのが東北大学だったんですよ。『なんで私たちが国立の大学に呼ばれるんだろう?』って思ったんですけど、楽しかったですよ。, 最後に司会の方に『白川和子さん何か一言』って言われて『日活ロマンポルノを見て平和な社会を築こうよ』って言ったんですよ。そうしたらウケちゃってウケちゃって(笑)。あれはシャレで言ったんですよ。あまりにも殺伐とした時代でしたからね」, 「平和な時代を」と訴えた白川さんだが、プライベートでは波乱の日々が待ち受けていた。次回は人気絶頂での引退、結婚、団地生活で主婦たちから受けた風当たりの強さ、子どもたちとの悪戦苦闘の日々を紹介。(津島令子).
2020 白川和子 テレ朝